【越前島津屋敷跡伝承地生部】
所在地:福井県福井市生部町
承久(じょうきゅう)3(1221)年7月12日、島津氏の祖である島津忠久(ただひさ)は、承久の乱の功により越前守護に任じられ、次男忠綱(ただつな)が守護代として越前に下向し、粟屋山城(現越前町厨)を築いた。
また同年8月25日には嫡男忠時(ただとき)が生部荘と久安(ひさやす)保重富(しげとみ)の地頭に補任され、忠綱は代官としてこの地に屋敷を構え居住したと伝えられている。生部荘と島津氏との関わりはこの時から始まった。
しかし7年後の安貞(あんてい)2(1228)年5月には後藤基綱(もとつな)(評定衆(ひょうじょうしゅう)の一人)が越前守護職に就いており、また仁治(にんじ)3(1242)年2月には忠時は生部荘に替えて和泉国和田(みきた)郷(現大阪府堺市)地頭に補任されている。こうして島津氏は越前から撤退することとなった。
「新編島津氏世録支流系図」(国宝島津家文書)によれば、忠綱の嫡男忠行(ただゆき)の子孫は、播磨(はりま)国下揖保(しもいぼ)を中心に発展したが、戦国時代に途絶えることとなった。
後の元文(げんぶん)2(1737)年に、島津22代藩主継豊(つぐとよ)の弟忠紀(ただのり)が「越前島津」の名跡を再興し、越前の地名より「重富家」と称した。重富家は、幕末には島津久光を輩出するなど、薩摩藩政にも大
きな力を持った。
一方、『系図纂要』や「島津系図」『続群書類従』では、忠綱の三男忠景(ただかげ)系が越前島津氏として扱われている。忠景の孫忠秀(ただひで)の庶子忠信(ただのぶ)は、太平記に「北国無双馬上の達者」と記された「島
津安芸前司」ではないかとする説のある人物であるが、出家後租海(そかい)と号し、上河北(かみこぎた)専光寺の開山となった。この専光寺は、もとは生部町にあり真言宗であったものが元亨(げんこう)元(1321)年真宗三門徒派の寺院として上河北に移ったものである。生部町にはその支坊が存続したが、戦国末期の一向一挟により焼失したと伝えられている。昭和45(1970)年、当地より多数の陶製仏具が出土し、伝承の一端が証明された。
また、『越州軍記』には、天正(てんしょう)元(1573)年8月織田信長に敗北した朝倉氏が大野へ落ちのびる際に、「嶋津」という人物が光徳院(義景の母)の伴をしたことが記されている。
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