朝倉孝景(敏景)・朝倉義景

  • あさくらたかかげ(としかげ)
  • 生没:正長元年(1428)~文明13年(1481)
  • 一乗谷初代当主。朝倉氏の祖先は但馬の地方豪族で、南北朝時代に朝倉広景(朝倉氏初代)が主家の斯波高経に従って越前に入国したのが越前朝倉氏の始まりとされる。孝景は、広景から数えて7代目に当たり教景、敏景とも名乗っていた。4代宗淳孝景と区別して英林孝景と呼ばれる場合が多い。 室町時代に活躍した武将で、応仁の乱(1467)では、西軍について京都で戦ったが、文明3年(1471)越前に帰国し、越前守護任命を条件に東軍について守護の斯波氏、守護代の甲斐氏と戦った。文明7年(1475)に越前をほぼ平定し、戦国大名朝倉氏繁栄の基礎を築いた。
  • あさくらよしかげ
  • 生没:天文2年(1533)~天正元年(1573)
  • 一乗谷5代で、越前朝倉氏最後の当主。延景を名乗っていたが、室町幕府代13代将軍義輝の1字を賜り義景と改名した。
    当時の朝倉氏最大の問題は、加賀一向一揆の存在であり、朝倉氏は3代貞景から5代義景まで3代にわたって一向一揆との死闘を繰り広げた。
    永禄10年(1567)足利義秋(義昭)は、力による将軍就任を目的に一乗谷を訪れ上洛を要請するが、義景が動かなかったため、義昭は織田信長を頼って越前を去り、室町幕府15代将軍についた。
    信長は将軍の命令として、義景に上洛を促すが従わなかったことを口実に義景を攻め、元亀元年(1570)6月、近江姉川で織田・徳川軍と朝倉・浅井軍が激突。天正元年(1573)義景は刀祢坂の戦いに大敗し、一族の朝倉景鏡の勧めにより大野へ退くが、その裏切りにより自刃した。

関連史跡

【一乗谷朝倉氏遺跡】
戦国大名朝倉氏の城下町跡。 国指定特別史跡。
4庭園が国指定特別名勝。
最盛期には人口1万人を超え、京に勝るとも劣らない「朝倉文化」を花開かせたが、 天正元年(1573)織田信長に敗北して、城下は火を放たれ歴史の幕を閉じた。
遺跡は上・下城戸に防御された谷間の城下町と山上の一乗谷城で構成されている。

【館跡庭園】

【館跡庭園】

【諏訪館跡庭園】

【諏訪館跡庭園】