久喜津輪中

【久喜津輪中】

【久喜津輪中】

所在地:福井市久喜津町農村広場

久喜津は、越前地方では極めて珍しい輪中集落でした。「輪中」とは、集落を堤で取り囲む洪水対策のことで、全国的には、愛知・岐阜・三重の県境の木曽川・揖斐川・長良川が合流する付近など、水害に悩まされてきた地方に多く見られます。
久喜津に伝わる古記録によると、江戸時代の初めごろまでの集落は、現在の場所より八丁(約872m)程南にありましたが、土地が低く水害に悩まされることが多かったのか、正徳6年(1715)に、福井藩の「格別の御評議」によって、集落・神社共に現在地へ移っています。
その際、藩によって集落を取り囲む堤が造られ始め、享保3年(1718)3月7日に3年の歳月をかけて輪中が完成しました。
明治32年(1899)の陸軍第9師団作製の地図には、久喜津を取り囲む長方形の堤が示され、他の集落と比べて際立った特色となっています。しかし、この翌年から九頭竜川・日野川・足羽川の大改修工事が開始され、大正11年(1922)度までに、現在見られるような大規模な堤防が築かれていきました。久喜津では、集落の西側の輪中の堤の上に、新たな堤防が築かれました。
堤防が完成すると、200年近く久喜津を水害から守りつづけていた輪中の堤は、その役目を終えて、次第に取り壊されていきました。現在は集落の北側に、その一部が残っているだけです。
江戸時代には、「輪中」以外にも「遊水池」や、「かすみ堤」と呼ばれる不連続堤防での洪水対策が行なわれていました。これらの方法には、自然の猛威に逆らわずに、被害の減少を図るという考えが根底にあります。
自然災害の増加が心配される今日、自然と共に生きてきた先人の知恵を学ぶことも必要ではないでしょうか。