ウィリアム・エリオット・グリフィスについて


グリフィス写真

福井市立郷土歴史博物館蔵 ウィリアム E. グリフィス

19世紀、欧米諸国による国際秩序の再編という危機の中、安全保障と産業の基礎となる「理化学」を修めた人材の養成は日本国の急務でした。福井藩は米国に天才留学生日下部太郎(くさかべたろう)を派遣しましたが、無理な学業がたたった日下部は首席での大学卒業を目前にして現地で亡くなります。その年の末、福井の藩校で理化学の基礎を少年たちに教えるべく、藩に採用されて来日した牧師志望の神学生こそ、語学講師として日下部と出会い友人となり、その葬儀にも参列していたW.E.グリフィスでした。

 

生来の真面目な性格と、新日本の発展に寄与したいという使命感から、契約上の科目だけでなく、もてる幅広い知識・教養を学校の内外で精力的に伝えようとするグリフィスは、藩士の深い信頼を得ました。由利公正たちとの交友から、グリフィスは明治維新という革命を高く評価し、日本という国には本格的研究に値する歴史・文化があると確信し、足で、馬で、舟で、あらゆる事物への関心を露わに越前の地をその目で見てまわりました。ただでさえ、かつての日本の美しい風景と、細やかで開けっぴろげな人情は、その頃来日した多くの西洋人同様にグリフィスを魅了してやまないものでした。

 

廃藩はグリフィスの滞日中もっとも印象的な事件であり、自分がまさに歴史的な瞬間に身をおいているという実感を彼に与えた事は、その主著「ミカドズ・エンパイア」に鮮やかに描かれています。グリフィスは封建制の清算と中央集権体制の成立をポジティヴにとらえましたが、それは彼が1年足らずで任地を去る主因ともなりました。しかしその一度きりの春夏秋冬の間に、彼は確かに福井という地の科学教育の礎を築いたという事実が、当館の開設にまでつながる記憶の原点となっています。

 

東京大学の前身となる学校での二年半の教職の後、帰国してからのグリフィスはいわゆる二足の草鞋を履く事になります。牧師として、作家として。それは後年、本人が実り多き人生として回顧するに足るものでした。還暦を迎えてからそのうちの一足を脱いで、文筆に専念するのですが、残された作品は伝記、歴史物語、フェアリーテイルなど多岐にわたります。そこでとりあげられた題材にはM.C.ペリー、T.ハリス、G.フルベッキ(グリフィスを日本に招いた宣教師)たちの伝記、あるいは日本人にはおなじみの昔話など、27歳の日に海を越えて赴任した国に関わる事柄が多く、その地で送った数年間が、その後の長い創作活動の絶えざる源泉となったといえます。

その日々は老いていよいよ美しく彼の記憶の中にありました。明治という時代を代表するジャパノロジストとして名声を確立したグリフィスの人生の最後に、昭和と改元されて間もない日本を再び訪れる機会が待っています。追憶の彼方にあった国がその後たどった半世紀間の、自らが種を蒔いた近代国家としての発展の、成果を確認する事になる文字通り皇国全国を巡る大旅行。その時の大歓迎が、当館の開館に至る福井とグリフィスのその後の一世紀の、新たな始まりでした。

グリフィスと教え子たち

「グリフィスと生徒の写真」福井市立郷土歴史博物館蔵